2009/09/10

『肉への慈悲 フランシス・ベイコン・インタヴュー』

デイヴィッド・シルヴェスター『肉への慈悲 フランシス・ベイコン・インタヴュー』(訳=小林等、筑摩書房)
1962
FB いつも屠殺場や肉の写真に心を動かされます。そして、私にとってはキリストの磔刑も同じカテゴリーに入るのです。動物が屠殺される直前にとったすさまじい写真があって、死のにおいがします。もちろん本当のところはわからないけれども、その写真を見ていると、動物はこれから自分がどうなるのか気づいているみたいで、必死で逃げようとしているように思えます。こういう写真があの絵〔《磔刑図》〕のベースになっているのでしょう。「磔刑図」にとても近いものがある気がするのです。敬虔なクリスチャンにとっては、「磔刑図」がまったく違う意味をもっていることは知っています。でも私は無神論者ですから、これは人間の行動の一つにすぎません。他人に対する行為のひとつです。p.28

FB 思うに、ベラスケスは当時の宮廷や人々を記録していると自分で信じていました。ところが現代の優秀な画家は、同じような状況に置かれた場合には、ゲームをするしかないのです。記録するにはフィルムを使えばいいとわかっているので、その仕事はほかのものにまかせればいい、ということになります。画家がやるべきことは、イメージを通して完成を解放することだけです。それに、現代人は自分がたまたま存在しているだけのつまらないものだと気づいているのではないでしょうか。だから無意味なゲームを最後までやらなくてはならないということも、わかっているのです。ベラスケスやレンブラントがどんな人生観をもっていたにせよ、絵を制作する態度は彼らなりに、宗教が提示する何らかの可能性にまだ若干なりとも影響されていたと思います。ところが現代人は宗教的な意味での可能性を完全に捨て去ってしまいました。今では、自分の行動によって自分を欺いて、しばらくの間だけごく前向きな気分になろうとするのがせいぜいです。たとえば、医者から命を買うようにして長生きするとか。あらゆる芸術が今では気晴らしのためのゲームです。いつだってそうだったと言われるかもしれませんが、今では完全にゲームなのです。こんなふうに状況は変化してきました。画家にとってますます困難な状況になってきているわけですが、これは素晴らしいことです。画家が画家たりうるためには、ゲームを本当に深化させることができなければならない時代になったのです。p.34

1966
FB (…)私が絵に描くということは相手を傷つけることになるので、好きなモデルの前では描きたくありません。そういうことは人目のないところでやりたいのです。そのほうがモデルの真の姿をより明確に記録できると思います。
DS 傷つけるとは、どういう意味ですか。
FB 世間では、少なくとも純朴な人は、歪めて描かれると傷つけられたと感じます。画家に対してどれほど思いやりをもっていようと、画家をどれほど気に入っていようと、そう感じるのです。
DS そういう人たちの直観が正しいとは思わないのですか。
FB たぶん、正しいのでしょう。それは充分わかっています。しかし、現代人で姿かたちを歪めることなく真の姿が伝わるように記録できた人がいるでしょうか。p.46

FB 絵を描く際には、偶然ないし幸運は最も重要な側面で、想像力の源になっていると思います。いい絵が描けても、自分で描いたのではなく、たまたま自分が授かることができたという感じがするのです。しかし、何年間も、偶然と偶然を利用する可能性とについて考えてきましたが、どこまでが純粋に偶然のおかげで、どこからがチャンスを生かす能力にかかっているのか、本当は全然わかりません。p.61

FB (…)抽象表現主義で行われたことはすべてレンブラントがやっています。しかし、レンブラントの絵は非合理なだけでなく、事実を記録しようとする試みでもあったので、なおさら私にとって刺激的で深みがあるのです。私が抽象画を好きになれない、あるいは興味をもてない理由のひとつは、絵画はこのようにふたつの側面をもつものなのに、抽象画は審美的な要素しかもっていないからです。いつもひとつのレベルにとどまっていて、パターンや形態の美しさにしか目を向けないのです。ほとんどの人々、とりわけ画家の内面には、どろどろした感情の領域が大きく広がっているのですが、抽象画家は一面的な絵でそうした感情をすべて表現できると信じているのでしょう。しかし、私が思うには、そのような表現は弱すぎて何も伝えられないのです。偉大な芸術は整然としていると思います。その秩序の中にきわめて直感的で偶発的なものがあっても、それも秩序を求め事実をより強烈に神経組織に伝えたいという欲望から生じているのです。すでに偉大な画家が存在したのに、どうして人は新たに何かを作ろうとするのでしょう。その理由はただ、偉大な画家の業績によって、世代ごとに直観が変化しているからです。そして直観が変われば、作品をより明確に、より正確に、より強烈に作りなおす方法についての感じ方が新しくなります。芸術は記録であり、何かを伝えるものだと思います。抽象画には伝えるものがなく、あるのは画家の美意識と乏しい感性だけです。抽象画には緊張感がまったくないのです。p.65

1971/73
FB (…)先日、人と話していて、こんなことを言いました。「自分が田舎屋にひとりで住んでいて、一生何も経験しなかったとしましょう。それでもまったく同じ人間になるでしょうか、それとももっとましな人間になるでしょうか」。私はそうは思いません。でも、ときどきそんなことを考えてしまうのです。p.84

DS (…)あなたの絵が、対象の姿かたち以外に何と関わっているのか、話してもらえませんか。
FB 私の心理状態です。それは、ユーモアのある言い方をすれば、うきうきする絶望とでもいう気分です。p.93

FB (…)私にとって現代絵画の神秘とは、姿かたちをどのように描くことができるかということです。もちろん、写実的に描くこともできるし、写真にとることもできます。でも、絵の制作という神秘的な過程で、姿かたちにひそんでいる神秘をとらえるにはどうしたらいいのでしょう。それには、非論理的な制作方法を用いるのです。非論理的な方法で論理的な結果をもたらそうと試みるのです。つまり、非論理的な方法でにわかに作品を生み出すことができて、しかもその作品が完全にリアルで、肖像画だったらモデルが誰だかわかるのが望ましいのです。
DS こう言い換えてもいいでしょうか。あなたは姿かたちに関する常識的な見方にできるだけ左右されないで、その姿かたちの絵を描こうとしている。
FB とてもうまく言い表してくれました。p.120

FB (…)私は伝統的な技法を使っているのかもしれないし、そう見えるかもしれませんが、その使い方を従来とはがらりと変えたり、本来とは大きく異なる目的で使ったりしたいですね。いわゆるアヴァン=ギャルドに関わった人のほとんどは、新しい手法を編み出したいと考えましたが、私はそうは思いません。私はアヴァン=ギャルドとは無縁なのでしょう。きわめて特殊化した手法を作りだす必要性をまったく感じないのです。技法を革新しようとしながら、その枠にあまりとらわれなかった唯一の人物はデュシャンです。彼はとてもうまくやりました。一方、私はいわゆる受け継がれてきた技法を用いているのでしょうが、その技法で過去に制作されてきた作品とは根本的に違うものを作ろうとしています。p.122

1974
DS 昔、あなたはたいしてお金を持っていないのに惜しげもなく使っていましたが、お金に困るということはなかったのですか。それとも、必ず救いの神が現れたのですか。
FB 策を講じてなんとか凌ぐということが、よくありました。どんなときでもどうにかやっていく才能があるのでしょうね。盗みとかそういうことをしても、良心の呵責をまったく感じないのですよ。きわめて自己中心的なんでしょうね。捕まって刑務所に入れられるのは嫌だという気持ちはありましたが、盗み自体は何とも思っていませんでした。p.140

1984
FB できるだけ自由に人生を過ごしたいし、最高の制作環境が欲しいだけです。ですから、政治に関しては、左翼に比べて理想主義的な面が少ない保守派に投票してきました。左翼は理想主義を振りかざして市民の生活に干渉してきますけど、保守派は放任しておいてくれますからね。保守派が無難だといつも思っています。p.216

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